二年目の夏



 草壁庵に来てから二回目の夏。
 一年というのはとても長いようで、過ぎてしまえば短く感じる。
 それはきっと、この一年がとても幸せで楽しかったから、直ぐに過ぎ去ってしまったのだろう。
 誰かと恋仲になるようなことは無かったが、家族、友人の温かさ。それを実感できる一年だった。
「おとうちゃん!」
 窓の外を見ながら物思いにふけっていると、後ろからみりあが飛びついてきた。
 顔をそちらに向け、返事をする。
「どうした?」
「みりあな、キャンプにいきたい!」
 嬉々として提案してくる。これはもう、行けると確信した顔だ。
「キャンプ?」
 キャンプとは言ってもいろいろある。海とか山とか。あと誰と行くのかとか。
「サマーキャンプ!」
 情報量は少ししか増えていないが、みりあはドヤ顔だった。
「なんで急にそう思った?」
 キャンプというのは一度くらいは行ってみたいものだとは思う。小さい頃なら尚のこと。
 来た時に比べて草壁庵も休みが取りやすくはなっているので、条件次第ではキャンプに行けない事もない。
「みんないくから、みりあもいきたい」
 みんな、というのは恐らく学園の友人だろう。みりあはいつも、その子たちの事を“みんな”と言う。
 つまり、俺を含んだ草壁庵の人や俺の友人たちと行きたいのではなく、“みんな”とキャンプに行きたいらしい。
「誰が連れて行ってくれるんだ?」
 それを聞くと、みりあは背中から飛び降りる。鞄をゴソゴソしたかと思うと、まるで秘密兵器でも取りだすかのように、嬉しそうに一枚のプリントを渡してきた。
「これ! よんで!」
 受け取って、目を通す。保護者向けのプリントのようだ。
 どうやら、キャンプなどを通して小さい子の成長を促すことを目的とした団体が行う活動の一環らしい。
 親のいない場所でいろいろ経験することが目的のようだ。
「これたぶん、みんなとは一緒に動けないぞ」
「なんだと!」
 分かってなかったようで、少し驚いていた。そしてプリントを取りあげられてしまった。
 みりあの友達がどのくらい参加するのかは分からないが、学園の主催ではない以上、みりあの友達の比率は全体の参加者から見ればどうしても少なくなる。余所の学園の子も来るだろう。
 全く関わらない事は無いんだろうけど、プリントによると班は無作為に決められるとあるから、一緒に行動できるのは多くて一人か二人だろう。
 でもまあ、友達が参加していてみりあだけ話しに入れないというのも今後の交友関係に悪影響が出かねない。
 同じゲームを遊んでないと仲間に入れないともいう。
 共通の話題を作るという点では、キャンプも一緒だ。
 何より、みりあが行きたいと言っているし、この引率してくれる団体も学園を通して参加者の募集をしているので、比較的安心できると思う。
「それでもいいなら、行っていいぞ」
 食い入るようにプリントを見ていたみりあが顔を上げる。書かれていることなんて殆ど読めないだろうに。
「ほんとか!? さすがおとうちゃん。計画通り!」
 やはり、行けると確信していたらしい。でも、その割には嬉しそうだ。
「そうときまれば、みりあは準備する! おやつをやまもり用意する!」
「気が早いな」
「キャンプはじゅんびするときから家に帰るまでがキャンプだ!」
 とても険しい顔でこちらを見ながら言い放っていた。
「なんなんだ……」
 秘蔵のお菓子を取りだして、鞄に詰めようとしている。しかし、申し訳ないのだが――、
「おやつは少しだけだって書いてたぞ」
「そんなばかな……」
 手に持ったお菓子を落としていた。思ったよりもショックなようだ。
「あと、歯磨きセット忘れるなよ」
「歯磨き、キャンプでもするのか……キャンプたいしたことないな……」
 よくわからない事を言う。少し落ち込んでいたみたいだが、それでも準備をしているみりあはとても楽しそうだった。
 俺はいろんな体験をせずにここまで来てしまった。だからこそ、みりあにはいろんなことを体験して貰いたい。
 これは、いいチャンスだと思った。


 板場での仕事も終わり、片付けに入る。
 この一年、腕は随分上がったと思う。それでも、里中さんには遠く及ばない。
 里中さんは十分成長していると言ってはくれるが……。想定内の成長速度であることは、彼女の表情から窺えた。
「そう言えば次の月曜日、板場は休むことになったから」
 手を動かしながら、里中さんが言った。
 一年の間に、草壁庵は完全な予約制で、飛び込み客については基本的にお断りをさせて頂くようになった。
 その影響で、宿に宿泊客がいないという状況がたまに発生する。
 そういう時は、スタッフの労働状況やその後の予約状況をみて、休みを貰うという決まりになっていた。
 今後スタッフを増やすことを考えると、休みのルールを明確にしていかなくてはならないとの事で、これは第一歩なのだと言う。
「そうなんですね。そういえば、その日はみりあがキャンプで居ないんですよ」
 里中さんが手を止めて、こちらを向く。作業は大方終わったようだ。
「キャンプ? 颯人くんは行かないの?」
「はい。学園の関係みたいで、親が行かないようなやつです。最近は休みになるとみりあと遊んでばかりだったので、いなくなってしまうと何したらいいかわからないですね」
 実際学園は殆ど関係ないのだが、説明するのもややこしいのでこれでいいだろう。
「なら丁度いいかな」
 なんだろう。笑顔で言われると、なんだか仕事でも降ってくるような、そんな気がした。
 仕事が速い人の方が回される仕事が多いのに、給料は同じ。なんて遠野先生の愚痴を思いだす。
 暇なんだろ? やっといてくれよ。というやつだ。
「その日にさ、ちょっとばっかし遠出しようと思ってるんだけど、颯人くんもどう?」
 仕事ではなかったようだ。しかしこの人もみりあと同じで全然情報量がなくて判断に困る。そしてドヤ顔だ。みりあのように無邪気に提案してくる様子は可愛いといえば可愛いのだが……。
「遠出ですか。どこに行くんですか?」
「関西の方。お母さんがね、琥珀っていう旅館の料理を食べてみろって言ってきてさ」
「それを食べに行くと」
「そう!」
 今まで正体不明な里中さんのお母さんだったが、どうやら連絡は取っているらしい。
 里中さんの師匠で、その人が食べろと言っている料理なのだから、何か意味があるんだろう。
「俺も行っていいんでしょうか」
「いいよいいよ。一人で行くのも寂しいじゃない。というか、お母さんには誘えって言われてたし」
 俺が断らなかったことを、里中さんはなんだか喜んでくれているようだった。俺も誘えと言われてたという事は、お母さんは俺を里中さんの弟子だと認めてくれるということなのか。
「日帰りですか?」
「一泊の予定だよ」
 それはなんだかお泊りデートみたいだと思ったが、本人が気にしていないようなので言わないでおく。
 楽しみにしてくれているようなので尚更だ。変に意識されてぎこちなくなってしまっては、折角の旅行も台無しだろう。
 それよりも気になるのは宿泊料だ。みりあのキャンプ代も合わせると、なかなか大変な値段になってしまうのではないだろうか。
「幾らくらいになるんですか?」
 個人的にはお金の話はあまり好ましくない。でもこれは聞かなければならない事なので聞く。
「お金はお母さんが出してくれるよ。宿の予約も」
 それは、いいんだろうか。里中さんは気にしている様子はない。むしろラッキーと思っているようにも見える。
 もしかしたら、母親とはそうやって甘えていいものなのかもしれない。俺は甘え方すら知らなかったのかと、少し悲しい気持ちになった。
 でもそれならそれで、ちょっとくらい里中母娘に甘えてみようと思う。きっと甘えられるのは今だけだろうから。
「助かります。お言葉に甘させて貰ってもいいですか?」
「甘えられるうちは、甘えてたらいいんだよ。それじゃ、行くってことでいいのかな?」
 俺に後ろめたさを感じさせない笑顔で言ってくれる。
 なら、俺の答えは決まっている。というより、里中さんからのお誘いという時点で決まっていたのかもしれない。
「はい、お願いします」
 こうして、みりあだけでなく、俺の旅行も決まったのだった。


 旅行当日。俺たちは今、湯之原から最寄りの空港にいた。
 最寄りといっても、とてもじゃないが最寄りという言葉のイメージに合う距離の場所じゃない。しかし最寄りであることには違いない。
 新幹線で行く作戦もあったのだが、新幹線に乗るまでの時間が掛かりすぎるし、新幹線に乗ってからも時間が掛かる。
 ということで、里中さんがお母さんに相談したのだが、「飛べ」と言われたらしい。
 幸い、目的の旅館は空港から結構近い。
「颯人くん、飛行機だよ。本当に飛ぶのかな?」
 どうやら飛行機が初めてらしい里中さんが、不安がっていた。
 俺も初めてだが、飛行機がちゃんと飛ぶことくらいは知っている。
 事故率で言えば、車よりも安全だという事も聞いていた。
「飛びますよ。それより、中に入ります。こっちに来てください」
「ええ!? なんかお姉さんのいるカウンターの前でいろいろ喋りながら搭乗手続きをするんじゃ!」
 少し困惑した様子で、キョロキョロとしている。
 確かに俺も少し前まではそう思っていた。
「唯依ちゃんがそういうのしなくていいように全部やってくれたじゃないですか。直接保安検査場でいいんです」
 お姉さんと話すのを楽しみにしていたのか、落ち込んだ様子でこちらまで歩いてくる。
 唯依ちゃんに予約をお願いしたとき、窓際を熱望していたので、事前にそういう手続きを済ませておけることを知っているのだと思ったが、そうでも無かったようだ。
 平日じゃなかったら、窓際はおろか並んで座ることも難しかったかもしれないが、何とか希望通りになった。
 荷物検査が終わると、搭乗待合室へと入る。
 中に入ると、外に比べて落ち着いた雰囲気だった。ゲートの前には沢山の椅子があり、その更に奥には、ガラス張りの壁がある。
 そこからは、滑走路の様子が見渡せるようになっている。
「凄い! 颯人くん見て、飛行機がいっぱい!」
 まるで子供の様にはしゃぐ里中さん。確かに飛行機はいっぱいだ。
「そりゃまあ、空港ですし……」
 他愛ない会話をしながら、二人で座って時間を待つ。
 乗る時に大はしゃぎをしていた里中さんだが、いざ飛び上がってみると……。
「ぐう……」
 寝ていた。何となくそんな気はしてたけど。
 ついさっきまで窓の外を写真に撮るのだと騒いでいたのに、いざその時になると力尽きているなんて、ますます子供だ。
 帰りの便で撮れない事もないんだろうけど、念のため俺が撮っておくか……。
 写真を撮っていると、キャビンアテンダントさんに声を掛けられる。飲みものをタダでもらえるらしい。
 とりあえず、里中さんは寝ているので二人分のジュースを俺が受け取る。ついでに、毛布も貰った。
「板場ではあんなに頼もしいのに」
 言いながら、里中さんに毛布を掛ける。夏とは言え、というか夏だからこそなのか機内は冷房が効いている。窓際だと頭の上に吹出口があるので気を付けなくてはならない。
「世話の掛かるお姉さんだ」
 そう言いながら、里中さんの気持ちよさそうな寝顔を見た俺は、きっと顔が緩んでいるんだろう。


 結局里中さんは着陸するまで寝ていた。離陸する前に寝たので、飛行機に乗ったことはあるが飛んでいる時の記憶がないという珍妙な事態になってしまった。
 美咲あたりから、飛行機どうでした? と聞かれてもきっと答えられない。
 空港を出ると、目の前に大きな駅があった。モノレールの駅らしく、とりあえずこれに乗って乗り換えた先に旅館はあるらしい。
「乗り換える駅って、覚えてます?」
 横にいた里中さんに話かける。さっきまで寝たことを悔いて落ち込んでいたが、気を取りなおしたようだ。
「大丈夫。ちゃんと覚えてるよ」
 さっきまでと違って落ち着いているようで、その笑顔も随分頼もしく見える。落ち着いていればちゃんと頼りになるお姉さんだ。
 念のために唯依ちゃんに乗り換え案内をプリントアウトして貰っていたが、どうやら使わなくて済みそうだ。
「もう少しだからね。着く頃には丁度いい時間だと思うよ」
「着いたら荷物置いて、お風呂ですかね」
「そだね。とりあえずゆっくりして、落ち着いてからご飯を頂こう」
「了解です」
 他の旅館のお風呂や料理というのは、なんだかとても楽しみだ。自分たちが少し試されているような気もするが、それよりも好奇心が勝っている。
 湯之原にはない宿だからだろうか、今まで以上にそわそわする。スポーツ選手が腕を競い合うというのも、こういう感情が関与しているのかも知れない。


「おっきい……」
「でかいですね……」
 二人して、琥珀を見上げる。草壁庵よりも、とても大きい。
 荘厳で、歴史を感じさせる。古めかしい大きな日本家屋の前には、幾つかの池がある。詳しくはないので実際はどうなのかわからないが、寝殿造りという言葉が浮かんだ。奥には、ホテルのような建物が併設されている。
 奥にある建物がメインの宿泊施設になっているんだろうけど、手前の建物が“ホテルの部分はオマケだ”と言わんばかりに主張をしていいた。
 奥の建物は比較的近年に建てられたんだろうけど、手前の建物はいったいどれだけ昔からあるんだろう。手入れはされているようだが、傷んでいる箇所を隠しきれなくなっているようにも見えた。
「こりゃ、旅館って言うよりはホテルだね」
「どのくらい入るんでしょう」
「そりゃあ、いっぱいだよ、いっぱい」
「でも、あまり人がいる様子がないですよ」
「そう言われれば、そんな感じがするね」
 物は立派なのに、この旅館は元気がない気がする。まるで、役目を終えようとしているような。
「とりあえず、入ろっか」
「あ、はい」
 里中さんに続いて館内へと入る。中では、女将さんが待っていてくれた。随分とお年を召されているようだ。
「ようこそいらっしゃいました。女将の佳乃でございます」
 だけどその年を感じさせない滑らかな所作。美里さんと比べても、見劣りしない。いや、より自然体での動作であるのは、この女将さんの方かも知れない。
 きっと、とても長い間この仕事に携わっていたんだろう。
「予約していた里中です」
 里中さんが挨拶をする。
「お待ちしておりました。鈴江さんの娘さんですよね。良く似ておられる」
 ここに来いという話しか聞かされていなかった里中さんは少し呆気に取られていた。どうやら、佳乃さんは里中さんのお母さん、鈴江さんの知り合いらしい。
「そうです。母のお知り合いの方だったんですね」
「ええ。若い頃にね、何度かお世話に」
 佳乃さんは体の向きを変える。
「お部屋へご案内します。こちらです」
 付いて行く。部屋までの道のりでは、他のお客さんの姿は少ししか見えなかった。旅館の大きさに対してお客さんが少なすぎる。これでは恐らくだが、維持費の回収が出来ない。
 里中さんもそれに気づいているのか、少し顔が暗い。
「こちらがお部屋になります。お食事は18時となりますが、ご要望があれば変更を承りますので」
 と案内された部屋の前に立つ。佳乃さんの様子を見るに、部屋は一つだけのようだ。
「あれ、部屋は一つだけなんですか?」
 同じように考えたらしい里中さんが聞く。
「はい。そのように承っております。ご夫婦でのご宿泊との事でしたので」
 部屋を押さえてくれたのは里中さんのお母さんだったはずだが……。
「ご夫婦……」
 里中さんも面食らっている。これはきっと、謀られたというやつだ。しかしだからと言って、俺たちはお金を払って貰う立場なのだ。部屋を分けてくれなんて言える訳がない。料金が倍近くになる。
 ひょっとして、ここまで予想して、料金は鈴江さんもちと言うことなんだろうか。
「なにか問題があったのでしょうか……」
 佳乃さんは不安そうにこちらを見る。問題はあったが、解決は出来ない。だとすればわざわざ言う必要はない。
「大丈夫です」
 俺が返事をする。里中さんは固まってしまって動かない。いつもは俺をからかって遊んでいるのに、実は免疫がなかったのか……。
「そうですか。では私はこれで。また後ほど」
 佳乃さんは下がっていく。俺たちも部屋に入らなくては。
 とにかく、里中さんを動かそう。
「里中さん、とりあえず部屋に入って荷物を置きましょう。どうするかは、その後で」
 ポンと里中さんの肩を叩く。
「あ、うん。そだね。とりあえず中に入ろうか」
 ぎこちないながらも、復活してくれた。一緒に中に入り荷物を置くと、腰を落ち着ける。
 部屋の中は草壁庵とそう変わらない。草壁庵よりも古いのは間違いなさそうだが、きちんと手が行き届いている。
 少し落ち着くと、俺も相部屋だということを意識してしまう。普段から板場で顔を合わせているというのに、なかなか目を合わせることが出来ない。けど、いつまでもそんな風にしてられない。里中さんを見る。
「あはは……。相部屋、相部屋か……」
 どうやら、里中さんは俺よりも困惑しているらしい。なんだかそわそわしている。もしかしたら、日頃からからかわれているお返しをするチャンスかもしれない!
「いつもずっと一緒じゃないですか」
「そ、そうか。いつも板場で一緒……って違うよ! 確かに仕事は一緒だけどさ!」
「飛行機の中でも一緒に寝ましたよ」
 写真を撮り終えた後、することも無いので俺も休んだ。寝てしまえば、着陸までは直ぐだった。
「そうかも知んないけど! ほ、ほら、ここには他の人いないわけだし!」
「いなかったら、里中さんは何かするんですか?」
「しないよ! したらニュースに出ちゃう!」
「如何わしいこと考えてたんですね……」
「そ、それは……!」
 いつもの里中さんもいいけど、狼狽えている里中さんも悪くない。ただ、今のこれは貴重なのかもしれない。例えまた同じような状況を用意しても、きっとそのうち慣れてしまうだろう。
「だ、だって、男女で同じ部屋で寝るなんて、まるで夫婦みたいじゃない!」
「お母さんは、実際に夫婦だという話をしていたようですしね」
「随分歳が離れてるって言うのに、あの人は……」
 しゅんとしている。里中さんの中では、歳の差と言うのは、俺が思っているよりも大きな事なのかもしれない。
「うう……落ち着かない……」
 もじもじしている。
「トイレですか?」
「ち、違う!」
 恥ずかしそうに、こちらを睨んでくる。なんだかこれ以上からかうのは可愛そうになってきた。
「お風呂入りましょうか」
「一緒に!?」
「違いますよ。別々にです」
「ああ、なんだ……」
 安心したような、少し寂しそうな、どちらとも付かない態度をとる。一緒に入らせて貰えるならそれは嬉しいけど、臨戦態勢になってしまっては困るので提案しないでおこう。
「温泉に浸かれば少しは気持ちも落ち着くかもしれません」
「そ、そっか。そうしようか」
 ぎこちなく立ち上がる。荷物をごそごそと触ったかと思うと、道具をいろいろ取りだしていた。部屋に準備されていた浴衣も取る。
「よし、行こう!」
 俺も準備をする。里中さんに比べたら、持っていくものは少ない。
「はい。行きましょう」
 館内の案内図でお風呂の場所を確認して、部屋の外へと出た。


 風呂を上がり、里中さんと合流して部屋に戻って来た。作戦は功を奏したようで、里中さんは随分と落ち着いていた。だが、今度は俺が問題だ。
 風呂上がりの里中さんは肌が仄かに赤く、しっとりしている。浴衣の相乗効果もあって、とても色っぽい。そればかりか、髪を解いているのだ。見た事がなかったせいか、ドキっとした。
 作戦は里中さんにとっては成功でも、俺にとっては失敗だった。
「颯人くん、どうしたの?」
 無邪気に近寄ってくる。落ち着いたせいかいつもの調子を取り戻していた。
 くそう、こんなの反則だ。
「のぼせてしまったかもしれません」
 誰かさんのせいで……。
「ありゃ。ちょっと涼もうか。食事まで少しあるしさ、窓開けてそこで話そうよ」
 里中さんは立ち上がると、ごく自然に俺の手を引いて立ち上がらせる。これは、元通りではなく免疫が作られて前よりタフになっているのでは。
 窓を開けると、側に座る。今の季節もあって劇的に涼しいというわけではないが、部屋の中心にいるよりは随分マシだった。湯之原なら、もっと涼しいのにとは思う。
「どう? 少しは良くなった?」
 からかっている様子はなく、本当に心配してくれているようだった。
「はい。気持ちいいです。それにしても、随分落ち着きましたね」
「私? お風呂でいろいろ考えてたら、別に気にすることでもないんだなって気づいちゃって」
 なにやら答えを見つけてきたらしい。俺はドキッとさせられて困っているのにずるい。
「同じ部屋で寝た事は無くてもさ、この一年で私が一番一緒にいた人って、颯人くんなんだよね。今更二人きりだから、相部屋だからって緊張するのがなんか馬鹿らしくなって」
 悪戯な微笑みを浮かべるが、以前ほどからかっているような感じはない。なんだか一歩先に進まれてしまった気分だ。
 里中さんが落ち着いているんだから俺も落ち着かなくてはとは思うが、俺の場合は変に意識してしまうというわけでは無く、目の前の女性がいろっぽ過ぎて色々押さえなくてはならないのだ。
 出来ることなら、眺めてたい。
「どうかした?」
 見とれてしまっていたことに気づかれてしまった。隠しても仕方ないので、正直に言う。
「髪解いてるの、初めて見たので」
 里中さんが自らの髪を見るように顔を傾け、手で触る。
「ああ、これね。そう言えば、草壁庵にいるときはずっと纏めてたね」
 俺の方に向き直ると、笑顔で言う。
「どうかな?」
 その笑顔もまた可愛いから、とてもずるい。
「素敵です。いつもと違って、お姉さんっぽいというか」
「いつもはお姉さんっぽくないって?」
「いや、そういうわけでは無いんですけど」
 凄く女性らしさを感じてしまっているというか……。
「まあ、いいんだけど。素敵って言って貰えたし」
 さっきからずっとにこにこしている。ご機嫌なようだ。
 それを見ていると、なんだか心が落ち着く、というか、落ち着かされている? 安心感と言った方が正しいのかも知れない。
 母の事を思いだす。
 幼い頃の記憶は、もう殆どない。それでも、温かかさだけは何となく覚えている。
 その類の物かと思った。でも、里中さんの笑顔を見て違うのだと分かる。
 母の温かさは女将が持っているものに似ている。里中さんから感じるものは、何だろう。
 わからない、けど、とても居心地がいい。
 姉がいたらこんな感じなんだろうか。それとも、恋人がいたら……。
 そこまで考えて、思い直す。恋人だとしても、恋人としての温かさなんてものがある訳じゃない。相手を想う気持ちが等しく強くても、その表れ方は人それぞれだ。それは、母親や姉でも同じこと。女将は、たまたま感覚が似ていただけなんだろう。
 何かに似ていると、枠に嵌めてしまってはだめだ。里中さんは里中さんだ。だから、里中さんから感じる温かさは、里中さんの温かさなんだ。
 今俺が里中さんに抱いている気持ちはどういうものなのかわからない。けど少なくとも、この笑顔が向けられる関係ではありたいと思った。
「お、笑った」
「え?」
 意図していなかったので、驚く。
「颯人くんあまり笑わないから、いいものを見れた気分」
 嬉しそうに里中さんは言う。俺が笑ったのを見て嬉しそうにするとか、俺も嬉しくなってしまうじゃないか。
「気を許して貰い始めてるのかな。初めの頃全然笑わなかったし」
「自分ではよくわからないですが……」
「あまり心に余裕が無かったのかも」
「かも知れません」
 草壁庵に来るまではいろいろあった。大変だったといえばそうなのだが、自分で選んだ道だ。だからこそ負けない様にと気を張っていたのかも知れない。
「みりあちゃん、今頃何してるんだろうね」
「夕食の準備でもしてる頃じゃないでしょうか。料理、少しくらい教えていればよかったです」
「教えるって言ってもね、外でやるのと中でやるのはまた別だろうし、わかんなくてもみんなでわいわいやれれば楽しいもんだよ」
「そうですけど、せめて包丁の使い方くらいは。怪我の予防が出来ると思います」
「それはあるかもね。でも安易に刃物を触らせたりはしないだろうから、大丈夫だよ」
「あ、そうか。引率の人が居るんですもんね」
「心配?」
「そりゃぁ……」
 なんだかんだ言って、日をまたいで離れ離れになるのは、みりあと出会って初めての事かも知れない。前の学園の旅行関係の行事には行かなかった。どうせ楽しくないと思っていたから。
 でも、今度の修学旅行は行きたいと思う。今は、学園での生活も楽しい。女将に感謝しなくてはならない。
「迷子になったり、誘拐された訳じゃないんだから大丈夫だよ。引率してくれてる人たちもプロなんだから」
「とは言ってもですね……」
「心配なものは心配、か」
 仕方ない奴だ、と笑われた気がする。
「親ってそういうもんなのかもね」
 親は子を想うものか。母はどうだったんだろう。
「あ、ごめん……」
 里中さんは申し訳なさそうに俺を見る。悪気はないのは分かっているし、俺とみりあの関係を認めてくれているからこその発言だと思う。
「大丈夫です。いつまでも気にしているようでは、周りにも迷惑を掛けてしまいます」
 母は俺を捨てた、が、俺に対して何も思っていないのなら、魔法なんて教えなかっただろう。このよくわからない魔法には、母からのなんらかのメッセージが込められているのかも知れない。それさえ分かれば、魔法はもう使うこともないのだろう。
「寂しくない?」
 里中さんは、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「今は、草壁庵のみんながいるので寂しくないです」
「ならよかった。これからもみんなで仲良くやってこうね」
 にっと笑う。寂しくない一番の理由は、板場に里中さんがいたからなのかも知れない。俺は彼女の目を見て、口を開く。
「はい。よろしくお願いします」


 料理が運ばれてきて、女将さんは下がっていく。これを食べるのがここに来た目的だ。
 本来なら、喜び勇んで食べる所なのだが、里中さんのお母さんからはこの料理を食べさせるために招待を受けていたわけだ。自分たちと比べてどうなのかを確かめる必要がある。
 見た目は、草壁庵とそう変わらない。草壁庵の料理は高い水準にあるので、それだけでも期待が持てる。
 この場所は湯之原と同じで、比較的漁港が近い。だからだと思うのだが、海鮮類が多く用意されていた。
 恐る恐る箸を付ける。自分もよく魚を触るので、まずは魚、刺身から食べてみた。
「美味しい」
 つい口に出してしまう。凄くおいしい。
「お、どれどれ」
 つられて里中さんも箸を付ける。
「ほんとだ。美味しい。こりゃなかなか」
 里中さんも満足そうに食べる。他のものも食べてみると、これまた美味しい。だというのに、里中さんは険しい顔をしている。
「どうしたんですか?」
「いや、美味しいんだけどさ、ところどころ勿体ないと思う部分があって」
 確かに美味しいが、里中さんには及ばない気はする。俺よりも遥か上なのは間違いないが。
「素材の活かし方というか、そういう部分は優れてる。たぶん目がいいんだろうね。けど調理の腕に関しては粗が目立つというか、熟成してないというか」
 素材に関しては、俺はまだ目利きが出来ない。一般的に言われていることなら把握してるけど、そこから先の職人技と呼ばれる境地になってくると、まだまだ未熟だ。
「商売できるレベルではあるとは思うんだけど、なんか、その……」
 里中さんは言い淀んでしまう。俺と同じことを感じていたのだとしたら、自分で自分の事を言うのを躊躇っているのかもしれない。
「里中さんの方が美味しいです」
 なので、代わりに俺がいう。
「だよね。私もそう思ったんだけど、自分の事だから少し自信なくて」
 里中さんも同じように感じていたようだ。首を傾げる。些細な差がわかるようになったんだから、俺も随分と舌が鍛えられていたらしい。でも、里中さんの方が上なんだとしたら、里中さんのお母さんの意図したことってなんなんだろう。
 考えながら箸を進めていると、ある事に気づく。
「これ……」
「ん?」
「なんとなく、里中さんっぽさがある料理のような」
 料理からは、里中さん的な何かを感じる。勿論同じわけでは無い。でも、なんだか似ている。里中さんも再び箸を動かし始めた。
「確かに、そういうところがあるかも」
 ふんふんと何かに納得するように料理を食べていた。
「作った人が気になりますね。お母さんの料理では無いんですよね?」
「うん。お母さんのものじゃないね」
 里中さんが違うというのだから、違うんだろう。となれば、余計に気になる。
「女将さんに話を聞いてみます?」
 少し考えてから、里中さんが口を開く。
「そうだね。でも食べてからにしよう。颯人くんも、折角自分で作ってないご飯なんだから美味しく頂きなよ」
 ああ、確かに、自分以外の人が作ったご飯を食べるのは久々だ。こんな時くらい、ゆっくりと食べさせてもらおう。最近は里中さんは滅多に賄いを作ってくれない。
「そうします」
 食べ終わると、自分たちで作らない料理を頂くのはいいものだとか話しながら少し休憩をする。その後は、備え付けの電話で里中さんが女将さんに連絡をしてくれた。
 暫くすると、走るような音がして、勢いよく戸が開いた。
「申し訳ありません!!」
 開くや否や、女の子が床に頭を付けて謝罪をする。俺たちが料理するときと似たような和服を着ている。
「え?」
 里中さんがそれを見て、びっくりしている。それはそうだ。来ていきなり謝罪されてもよくわからない。
「えっ!?」
 里中さんの反応に、今度は女の子がびっくりする。
「あ、えと、料理に何か問題があったわけでは……」
「違う違う、美味しかったから、話聞きたいなって」
 里中さんが掌をふりふりして否定する。どうやら、呼び出されたのは何か問題があったのだと判断しらしい。
「良かったです。もう、宿泊費を私がお支払いして詫びる他ないと思ってました……」
 顔を上げ、女の子の顔がしっかり見える。顔立ちは整っていて、目が大きい。透き通った白い肌はとても綺麗で、ついつい見とれてしまいそうになる。歳は俺と同じくらいのようだ。
 黒い髪は後ろで束ねているようだが、ファッションというには雑な束ね方で、料理のためなのだろうと予想が出来る。背は美咲より少し高いくらいか。胸は少なくとも里中さんよりは大きい。
 さっきまでこの世の終わりみたいな顔をしていたのに、安心したのか今はにこにこしている。気持ちの切り替えが早いのかもしれない。笑顔になると、とても可愛く見える。
 しかし、料理を作った人を呼んでこの人が来たという事は……。
「あなたがこの料理を?」
 疑問に思ったことを聞く。少し怖い顔をしていたかも知れない。
「はい。お客様のお食事は、私が用意させて頂きました」
 変わらず笑顔で答える。それを聞いて、里中さんは嬉しそうにする。俺は少し複雑だ。
「あ、申し遅れました。私は本日の調理担当で、柚葉(ゆずは)といいます」
 丁寧に挨拶をしてくれる。けど、丁寧な分名前だけの挨拶というのが気になった。
「里中美鈴さんと時坂颯人さんですよね。鈴江さんからお伺いしています」
 鈴江さん、里中さんのお母さんと知り合いなのか。俺たちがここに来るという事も通達済みだったようだ。
 この子が問題の料理を作ったのだから、鈴江さんの食べさせたかった料理とはこれで間違いない。
「お母さんのこと知ってるんだ」
「はい。私は鈴江さんからプロの業を習いました」
 これが料理に里中さんっぽさがあった理由か。鈴江さんの指導を受けて、このレベルにまで達した。俺と同じ年代でありながら、このレベルまで……。
 見えない様に、拳を握る。必死に学んでいるつもりで、どこか気が緩んでいたのだと気づかされる。俺の周りにいた料理人は、皆歳が上だった。その人たちの年齢に達するまでに、追いつけばいいのだと勝手に考えていた。
 けど、違う。今この瞬間勝つようなつもりで取り組まないと真に上を目指す事が出来ない。俺がベテランと言われるまでになった時、ベテランだった人たちは更に高いところにいる。 そんな単純なことを分かっていなかった。
 考え込んでいる俺を見て、柚葉さんは言う。
「時坂さんも料理人だと聞いています。歳が近い方とお知り合いになれて、とても嬉しいです」
 ずっとにこにこしていたが、更に輪を掛ける様な笑顔で俺を見る。そんな綺麗な顔で、そんな笑顔で見られたら困ってしまう。
「俺も嬉しいです。おかげで目が覚めました」
「それはそれは、よくわかりませんが良かったです!」
 何故かガッツポーズを取る。結構不思議な子なのかも知れない。
「颯人くんは比較対象がベテランさんしかいなかったからね。同じくらいの歳のライバルが出来て燃えてるんだよ」
 俺の心を察していたらしい里中さんが代弁してくれる。ネガティブなところはカットしてくれているのか気づいてないのか。嬉しそうに話しているところになんだか愛を感じた。
「では、これからは私と競い合いましょう。負けません!」
 今度はまっすぐに俺の目を見る。この人はこれだけの実力があって慢心していない。表情がころころと変わるのに、どこか凛としていた。
「と、そう言えばご用件はなんだったのでしょう」
 不思議そうに聞いてくる。そういえば、呼び出したのだった。
「ああ、ごめん。料理が里中さんの作るものに似てる部分があったから気になって」
「なるほど。では、先ほどのお話で解決したようですね」
 俺たちの疑問が解消しただけなのに、柚葉さんは自分の事の様に嬉しそうにする。不思議な子だけど、いい子なんだな。
「それでは、ご用件も済んだようですし、私はお仕事に戻ります!」
 勢いよく立ち上がろうとする。が、痺れていたようで足がもつれて変な声を出しながら倒れ掛かる。
「おお……!」
 すかさず、里中さんが受け止めた。反応が早すぎる。本来は男である俺の役目だとは思うんだが、身体能力では里中さんには敵わないようだ。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です! ご迷惑をおかけしました。それでは、今度こそ!」
 頭を下げて、部屋を出て行く。特別綺麗な動作というわけでもないが、なんだかこちらも元気になるような動きだった。
「行っちゃったね」
 なんだかしみじみと言う里中さん。
「元気な子でしたね」
 元気でよく笑う。話すときは視線を外さないし、嬉しそうにしてくれる。
「うん。ちょっと変わってたけど」
「美咲よりは変わってない気もします」
「それはある」
 里中さんがスッと立ち上がる。何をするのかと思っていたら、再びお風呂の準備をし出した。
「ちょっといろいろ気持ちを整理したいから、もっかいお風呂行く」
 何となく、気持ちが分かる。俺も目の前に同年代の凄い人が現れて、いろいろ考えたいとは思っていた。少し整理して、里中さんと話をしたい。
「俺も行きます」
「よし、じゃあいこっか」
「はい」
 ささっと出て行く里中さんの後について出た。歩く度にさらさらと揺れる髪を見ていると、なんだかもんもんとする。普段のひょこひょこ動いている感じも捨てがたいが、今の状態はレアなのでしっかりと堪能しなくてはならない。そのまま、お風呂の入り口までじっくりと見させてもらった。

 部屋に戻ってくると、食器はさげられており、代わりに布団が敷いてあった。一枚しかなかったらどうしようとか少し考えていたが、ちゃんと二枚あった。ちょっと距離は近い気もするが。
「用意して貰えるって、凄く嬉しいんだね」
 里中さんが寝る準備をしながら言う。タオルを干したり洗面用具を出したりしている。
「そうですね。でもそれは、用意して貰えることを当たり前だと思ってないから感じられることです」
 俺も寝る準備をする。みりあに言ってばかりで、俺が歯磨きをしないというのは問題だ。しっかりやろう。
 二人で並んで歯を磨く。窮屈だったし体が触れていたけど、里中さんは嫌そうな顔をしていなかった。けど歯磨きしながらもごもご喋っていた。何を言ってるかよくわからないので、終わってから話そうと伝える。
 いろいろ終えて、布団の上に腰を下ろす。後はもう特別なにかするような事もない。ゆっくりと里中さんと話が出来る。
 里中さんは戻ってくると、ついでに部屋の明かりを落とした。急に明かりが消えて全然見えなくなる。外の明かりが少しだけ入りこんでいるので、目が慣れればちょっとは見えるだろう。
「もう寝るんですか?」
「ち、違うけど、寝顔見られたら恥ずかしいでしょ!」
 どうやら、寝顔を見られることを意識するあまり明かりを消したようだ。まだ寝ないのだから寝顔は見られないとは思うけど、とにかく恥ずかしいのだという気持ちは伝わって来た。休憩時間に板場で寝てたりするくせにこういう時は意識するのか……。
 ただ確かに変に意識して眠れなくなるくらいなら、見えない方がいい。どうせ、変な気持ちになっても手は出せないのだ。だったら、変な気持ちにならない様に努力した方が健全だ。
 ごそごそと音がした。どうやら里中さんは布団に入ったらしい。一人だけ体を起こしていても怪しいので、俺も布団に入る。
「旅行も終わりだね」
 なんだか寂しそうに里中さんが言う。明かりが消えてしまえば特に恥ずかしがることもなく大丈夫なようだった。
「家に着くまでが旅行だってみりあが言ってましたよ」
 正確にはキャンプと言ってたけど。
「あはは、そっか。じゃあまだ半分くらいだね」
 今度は明るく返してくれる。
「でも、目的は達しました」
「うん。最初はよくわからなかったけど、今はお母さんの考えがなんとなくわかる」
 口調が少し真剣になる。料理の事、自分たちのことについてだからだろう。
「草壁庵辞めて何してるのかと思えば、別の場所で人を育ててたとはね」
「どこにいるかは分かってなかったんですね」
「連絡は取りあってたけど、どこで何してるかまでは気にしてなかったよ」
 言わないのも凄いが、気にしないもの凄い。
「料理そのものは、私はお母さんを超えたと思ってたし、お母さんもそう思ってたから草壁庵を辞めた。でも、それだけじゃないんだって思い知らされちゃった」
 少し落ち込んでるようにも聞こえる。けど、そういう感情を上手く整理するためにお風呂に入ったんだろうから、今は別の気持ちがあるはずだ。
「指導力は私の方が上だって言われてる気がしたよ。私もお母さんに育てられてお母さんを超えたわけだから、その通りではあるんだけど、悔しいよね」
 本当に悔しそうに言う。お母さんは本当に指導が上手いんだろう。でも、それだけでは里中さんの指導力を上回っているとは判断できない。単純に俺がふがいないだけの可能性があるからだ。
「里中さんの指導はとても優れていると思います。俺は里中さんだから頑張ってこれました。お母さんの事知らずに言うのもあれですが、里中さんで良かったと思ってます」
 そう、問題なのは俺なのだ。
「俺がふがいないから、柚葉さんにあそこまで差を付けられてるんだと思います」
「いやいや、颯人くんは良くやってるよ! 柚葉ちゃんがちょっとぶっ飛んで腕がいいだけで……」
「それでも負けているのは間違いありません。歳の差や経験年数の差があったとしても、負けは負けなんだと柚葉さんのお陰で気づく事ができました」
 再び拳を握る。口調は少し強くなってしまったかもしれない。同年代の子に負けを突き付けられたからこそ、気づかされたことが多い。
「気持ちは分かる。私も昔お母さんに同じような事思ってた。お母さんの方が長いけど、負けは負けだって」
「けどさ、長いってことはその分努力してるんだ。負けて当たり前とまでは言わないけど、その努力をすっとばしてより上に行こうだなんて、随分と調子の良い事を考えてたんだと思うよ」
 言葉は随分優しいが、少し注意されている。柚葉さんがどのくらい経験を積んでいるのか分からないが、ちょっとかじった俺が負けて、ごねていればその反応は当然だ。
 お前はそれを言えるだけの努力をして来たのかと、そういうことなんだ。
 けど、それでも。
「俺は勝ちたいです」
「奇遇だね。私もそう思ってた」
 今度はさっきよりも優しい言い方だった。
「お母さんは颯人くんも連れて行けっていってたからさ、今回の旅行もそもそも颯人くんが一緒に来る想定だったんだと思う」
「それで柚葉ちゃんに会わせて、私には弟子の差を見せつけて、颯人くんには同年代の子でも遥か上の存在がいることを見せつける。それがきっと今回の目的だったんだ」
「柚葉さんを見て、俺たちを奮起させるのが目的だったと」
「たぶんね。私の勝手な想像だけど」
 突発的な旅行だと思ってたけど、もしかしたら結構前から練られていた事なのかもしれない。
 俺が草壁庵に来たのは向こうからしたらたまたまだっただろうけど、指導力という点で実力の差を見せるには丁度良い存在だのかもしれない。そして、ついでに俺も焚きつけてやれという感じだったんだろう。
「こういう事考える人なんだったら、草壁庵辞めちゃったのも、私の成長を促すためだったのかもね」
「というと?」
「さっき颯人くんが言ってたじゃない。用意して貰えることを当たり前だと思ってないから感じられるって」
「あ、そういう事か」
「私は一人で板場をやって、大げさに言うと死ぬ思いだった。なんでお母さんは私をこんな目に合わせるんだ、女将はなんで新しい人を雇ってくれないんだって。だからこそ、颯人くんが来てくれてとても救われて、一緒に作業をして貰えることにとても感謝出来てる」
「でももしお母さんたちがいなくならなかったら、料理の腕でお母さんを超えてしまっていた私は、調子にのって傲慢になっていたかもしれない」
 料理では天狗の鼻をへし折ることが出来なくなったので、万能感を持たせないように一人にしたという事か。
 随分無茶なことをしたもんだと思う。普通なら潰れてしまうし、逆にやり遂げたらより強固な万能感を持ってしまう可能性がある。でもやったという事は、それだけ娘を信じていたということなのか。
 指導力が優れているというのも頷ける。慢心しない様、都度適格に鼻を折ってくれるわけだから、折られる側は謙虚になる。
 ただ、このやり方に耐えうるメンタルがないと成り立たない。柚葉さんもタフだという事か。
「俺、今までしっかりやってるつもりで、結構ふらふらしてたみたいです」
 俺の気持ちなんて知っても仕方がないかも知れない。でも、里中さんに聞いて欲しかった。
「……うん」
 少し間が空くと、里中さんが返事をしてくれた。
「ここへ来て良かったです。柚葉さんのお陰で危機感を覚えました。料理を頑張りたいっていう気持ちが、自分が思う以上にあった事にも気づかされました」
 もし、草壁庵で働く事が出来なくなったとき、新しい場所で働くとき、その時は料理人ではない仕事をするかも知れないと思っていた。
 今は違う。どこへ行っても料理人として働きたい。それに気づく事ができた。だからこそ、とても悔しい。
「頑張りましょう、一緒に。お母さんと、柚葉さんを倒しましょう」
「倒すって言い方はあれだけど、私も勝ちたい。でもさ、颯人くんは別の場所で経験を積むことだって出来るんだよ。なにも私に教わらなくてもいい」
 声が段々と小さくなっていた。俺を突き放したいわけではなく、自分の指導の仕方に自信がなくなっているんじゃないだろうか。
「俺は里中さんと一緒に頑張りたいんです」
「でも……」
「でも、じゃないです。俺は里中さんに師事することが出来て良かったと思っています。里中さんだったから、料理を好きになれたんです」
「……恥ずかしいことを言う」
 声からは恥ずかしがっている様子が感じられたが、暗くて表情は全く見えない。とても損をした気分だ。
「でもまあ、颯人くんがそう言ってくれるなら、私はそれに応えられるように頑張るだけだけだよ」
「二人で頑張りましょう」
「うん、頑張ろう!」
 そう答える里中さんは、きっと満面の笑顔なんだと思う。口調から表情が予測できるくらいには、一緒にいたという事なのかもしれない。

 翌朝、支度を済ませて清算をする。女将さんに見送られて旅館の外に出ると、柚葉さんが待っていた。
「おはようございます!」
 元気よく挨拶してくれる。相変わらずにこにこだ。
「おはよう。わざわざこんなところまでありがとうね」
 里中さんが挨拶を返す。
「いえいえ。折角ライバルさんが出来たので、お見送りをと思いまして」
 俺の方を見る。里中さんのお母さんから話を聞いているのだとしたら、俺の実力はある程度把握しているはずだ。それでもライバルと表現するのは、本当にそう思っているのか皮肉なのか。皮肉をいうような子には見えないけど。
「負けないですよ。直ぐに追いつきます」
「私も負けない様に頑張ります!」
 またガッツポーズを取っている。変な子だけど、見ていると元気になる。
「里中さん、折角知り合えたんです。また来ましょう」
 里中さんの方を見る。里中さんもそれを聞いて、こちらを見た。
「いいね。また来よう。今度は勉強会もさせて貰おう」
 二人して柚葉さんの方を見るが、柚葉さんは気まずそうな顔で、頬を指でかく。
「あー……それがですね。大変言いづらいことではあるのですが、ここ、この夏で営業をやめてしまうんです」
 驚いた。でもそれで旅館の雰囲気に納得がいった。元気がない感じがしたのは、そういう事だったのか。
「そうなんだ。残念だね……」
 寂しそうに里中さんが言う。
「柚葉さんはどうするんですか?」
 旅館を閉めてしまうということは、柚葉さんもいられなくなるということだ。
「秘密です!」
 元気の良い返事だ。見事にかわされてしまう。どうせなら連絡先を教えて貰って情報交換したいとか思っていたのに、行き先さえ教えて貰えない現実にうなだれる。
 その様子を見ていた里中さんが何かを察知したようで柚葉さんの方に向き直る。
「じゃあ、良かったら連絡先を教えてよ。姉妹弟子だし、折角会えたんだし」
 俺がやりたい事を分かってくれたようで、代わりに聞いてくれた。
「はい! 是非お願いします。颯人さんもお願いします!」
 呆気に取られてしまう。どうやら、行き先を隠したのは俺が嫌だからではないらしい。
 いざ交換をすると、嫌そうにするどころか嬉しそうにしている。ますますよくわからない子だ。
「申し訳ないです。空気を読んで交換してくれてるんだと思いますが、無理しなくても」
「いえいえ、そんなことは無いです! 私も颯人さんとは仲良くなりたいと思っていたので」
 ほんの一瞬、表情が曇ったように見えた。見間違いでなければ、どこか寂しさそうな、そんな顔だった。
「ありがとうございます!」
 交換をし終えると、また嬉しそうに微笑んだ。ほんの一瞬、見間違いかも知れない。けどこれだけ笑顔ばかりの子が顔を曇らせたのだとしたら、何か思う所があるのかもしれない。
 柚葉さんは、俺の事をどこまで聞いているんだろう。

 連絡先を交換し、別れの挨拶をすると旅館を離れる。柚葉さんは、暫く手を振ってくれていた。
「旅館、無くなってしまうの残念ですね」
「うん。けど、仕方ないよ。女将さん結構高齢だし、跡取りがいないのかも」
 並んで歩きながら話す。
「草壁庵もいつかそうなってしまうんでしょうか」
「そうなるかどうかは、これからの私たち次第、でしょ!」
 バシッと背中を叩かれる。結構痛い。
「そうでした。長く続けて貰えるよう頑張りましょう」
「みんなでね、一生懸命やっていこう」
 俺たちがずっと生きていられるわけじゃないけど、次に繋げられるかどうかは俺たち次第だ。頑張らねば。


 残暑も過ぎ去り、枯れ葉が舞う季節。街の中心に川が流れる湯之原では、肌寒くなってきていた。
 美咲はクリスマスツリーがどうとか言っていたが少々気が早いと思う。
 女将が用事があるというので、里中さんと一緒に事務室に来た。他の人も手が空き次第来るということだ。
「今まで秘密にしていたのだけど、今日から新しい従業員が来るわ」
 重大発表をさらっと言う女将。しかも秘密にしてたとか言ってる。
「えっ!」
 里中さんもびっくりしている。しかし女将はそれを意に介する様子はない。
「それじゃあ、入ってきて」
 まるで転校生の紹介みたいな仕方で、新しい人を呼ぶ。
 呼ばれて入って来たのは……。
「来ました!」
 柚葉ちゃんだった。しかも作業用の着物を既に着ている。草壁庵の物では無いようだが。
「は?」
 思わず声が出てしまう。俺がびっくりして固まっていると、里中さんが聞く。
「いったいどういう事なんでしょう……」
「柚葉ちゃんは今日から住み込みで草壁庵で働きます。離れはまだ部屋があるから、そこを使うわ。あ、仕事は二人と一緒で板場に入るのでよろしくね」
 女将は普通だ。たぶん普通、なんだが、心なしか少しだけ、してやった感を出している気がする。
「もしかしてとは思いますが、旅行に行く前からいろいろと決まってました?」
 里中さんが聞く。明らかに女将を疑っている目だ。
「なんのことだか全くわからないわ」
 少しも動揺しない女将。完璧すぎて逆に怪しい。
「これは、お母さんと女将が共謀したとしか……」
 里中さんも似たような事を思っていたらしい。しかし、柚葉ちゃんがここに来るのだったら、わざわざ関西まで出向く必要はなかったような。
「旅行は、里中さんからさとちゃんへのご褒美ということらしいわ」
 どうやらその疑問も御見通しだったらしい。
 詳しい事情は後で聞くとして、とりあえず柚葉ちゃんを歓迎しよう。ここでいろいろ問答をすれば、いい気分はしないだろう。
「柚葉ちゃん、来てくれるんだったら教えてくれても良かったのに」
 頻繁に連絡を取っていたわけでは無いが、少しは話ていた。その時に“柚葉さん”はやめてくれと言われたので今の形に落ち着いた。
「秘密という事でしたので! もしかしてご迷惑だったでしょうか……」
 しょぼんとしている。女将を問いただすのをやめて正解だった。
「そんなことないよ。来てくれて凄く嬉しい」
「良かったです!」
 柚葉ちゃんの顔がパァっと明るくなる。
「しかしこれは、もしかして、私が一人板場を切り盛りしなくてよくなるタイミングは、本当は今だったんじゃないかと思えてくるんですが……」
 里中さんが虚ろな目で女将をじっと見つめている。里中さんを一人にしたのも、期間を置いて人を入れるのも、全ては女将と里中さんのお母さんの策略だったのかもしれない。
「そ、そんな事は無いわよ。ほら、颯人くんいるじゃない」
 里中さんが怖いのか、痛いところを突かれたのかはわからないが、女将は少し動揺していた。
 柚葉ちゃんは全然わかってないようで、不思議そうにしている。
「後でゆっくり話すよ」
 それを聞くと、少し嬉しそうにした。
「はい!」
 女将は里中さんから逃げるようにこちらを向く。
「颯人くん、柚葉ちゃんがみんなに挨拶終わったら離れに案内してあげて欲しいの。お願いできる?」
 離れには最近妙に美咲が出入りしている部屋があった。探し物をしていると言ってたのでそうだと思っていたのだが、どうやらあれは掃除をしていたのだと今思い至る。
「はい。大丈夫です」
「ありがとう、お願いね」
 女将は微笑む。女将もよくにこにこしているが、柚葉ちゃんには敵わないなとか思ってしまった。
「颯人さん、よろしくお願いします!」
 元気よく柚葉ちゃんにお願いされる。改めて綺麗な子だなと感じた。後輩なんて出来ると思ってなかったので結構嬉しい。実力は俺より上なわけだが。
「こちらこそ、これからよろしく」
 仲間が増えるというのはとても喜ばしい。それが、好敵手であるのなら尚の事。柚葉ちゃんの登場は、きっと俺たちにとって良い刺激となってくれる。そう思った。


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