心春卒業後



 どたどたと足音を立てながら動き回っていたかと思うと、突然前の方に飛んだ。
 頭から突っ込んだのでヘッドスライディングでもするのかと思ったが、くるっと回転してそのまま起き上る。
 こちらを向くと、ドヤ顔で変なポーズを取った。
「どうだ!」
 新しく覚えた技を披露して、褒めてくれと言わんばかりにみりあが言う。そういえば、前回り受け身を里中さんたちに習うんだと話していた気がする。
「良くできてるな。でも危ないから、もうここじゃしたらだめだぞ」
「わかった! こんどから外でする!」
「外はもっとだめだ。痛いぞ」
 外は失敗したときが流石に怖い。あとで里中さんに練習出来る場所を聞いておこう。
「頭から飛んでよく怖くないね……」
 布団を敷いていた心春が言う。以前より少し長くなった髪は、動きに合わせてゆらゆらと揺れていた。仕事をする時は後ろで縛っているが、部屋にいるときはほどいている。
 寝間着として使っている浴衣も初めの頃に比べて随分自然になった。それでもたまにドキッとさせられる。我が彼女ながら色っぽい。
 風呂上がりに、草壁庵の今後の方針について話し合っていたのだが、みりあが騒ぎだしてお流れになった。急ぎでもないし、二人で話したところで進むかといえばそうでもないのでいいんだが。
「そういうのはみりあの得意分野かもな。プールの高いところからの飛び込みとかも大丈夫そうだ」
「私は高いところは大丈夫だけど、着水に失敗する未来しか見えないから怖くて出来ない」
 布団を敷き終えると、心春は俺の隣に座る。心春は運動が苦手だから、確かにお腹を打つ気がする。
 苦笑いをしていると、心春は部屋を見回す。
「ずっとここにいるっていうのも、難しいのかもね」
 どういう意味なのかと、少し考える。みりあの行動を見ての事だから、草壁庵で働けなるとかでは無く、家族でこの部屋で暮らすのは難しいという意味だろう。
 卒業後に心春と同棲したはいいが、場所は離れの俺の部屋だ。みりあと二人の時は気にならなかったがちょっと手狭だ。荷物の量も随分と違う。
 入り切らないので心春の私物は最低限の物しか置かれていない。みりあも時期が来れば自分の部屋を欲しがるだろう。それに、家族が増えることだって考えなくてはならない。
「どうしたって狭くなるな」
「何かいい方法があればいいんだけど、どこかお部屋を探した方がいいのかもね」
「そうなるよなぁ」
 今の部屋はとても居心地がいい。なんと言っても職場にとても近い。それは通勤の快適さだけではない。近くに頼れる人がいる心強さだってある。
「明日会議の後に時間ありそうだったら相談してみよう!」
「そうさせて貰うか」
 心春の言う会議とは、草壁庵の情報共有会議のことだ。
 今までは美咲と女将だけで行い、他のスタッフに後で内容が通達されるだけだったのだが、今後の事を考える時期だということで暫くは全員で集まって行うことになっていた。
「みりあも会議でるぞ!」
 いつの間にかみりあは布団にもぐりこんでいた。みりあ用の布団から頭だけこちら側に出していて、ヤドカリみたいな格好をしている。
「みりあは学園だろ」
 あれからいろいろあって、みりあも学園に行けるようになった。俺だけの力では無い。女将、そして施設を出てからの俺の行動を評価してくれていたあいつが、手を貸してくれた。
「そうだった! 明日はカレーだからな! みりあは学園へゆく!」
 そう言うと、布団の中へと入り、枕の方へと向かって行く。布団がもこもこ動いて、枕までたどり着いたかと思うと動かなくなった。
 寝ると決めてから寝るまでが早すぎる。それを見た心春はくすくすと笑っていた。
「明日は前に言ってたなんとかってシステムの提案なんだっけ」
「お客様情報みえるくんね!」
 心春がちょっと自慢気に言う。女将に相談されたことに対しての心春なりの解決方法がそのみえるくんとやららしい。
 心春は今、草壁庵で事務の仕事をしている。事務作業をしつつ女将から経営について学び、経験と実績を積む事になっている。
 いくら心春が在学中に独力で経営を学んでいたと言っても、長年現場でやって来た女将に意見するようなレベルではない。
 まずは、女将が基本的な方向性を示し、それを実現するためにどうするのが良いかを心春に相談する。心春はそれに対する答えを用意することで、女将の選択肢を増やすという手法を取っていた。
 これなら心春がいることの意味がでて、心春も女将のやり方を学ぶことが出来る。
 今回は、女将と美咲の頭の中と、代々女将が引き継いできた手帳に記されているお客様情報を、スタッフ全員に共有する過程を簡略化したいという話だった。
「携帯で情報を見れるようにするの?」
「そだね。ただ、板場は特になんだけど、普段から触ってる携帯で情報をチェックするのは衛生的に良くないかも。見る度に手を洗ってっていうのも手間だし」
 確かにそうかもしれない。以前ファーストフード店で、仕事に入る前に綺麗に手を洗ってますとアピールしているところがあったのだが、お金を触った後に食べ物を扱ったりしているのを見て残念な気持ちになったことがある。
「板場には専用のタブレットでもお願いするかも」
「それは嬉しいけど少し残念だな。自分の携帯でも見てみたいとかちょっと思う」
 全ては覚えることは出来ないけど、暇つぶしに眺めてたら情報の少しくらいは覚えられるだろう。携帯で見れるのもいいが、真に効率的なのは美咲の様に全て頭に入っている状態だ。
「大丈夫、颯人のやつでも見れるよ。それを板場では使わなければいいだけかな」
 よくわからないが、俺のでも見れるらしい。何となく気になって携帯を取りだす。古いけど、大丈夫なんだろうか。
「颯人のって結構前のやつだよね」
 心春が携帯の方を見る。やっぱり古いとだめなんだろうか。
「古かったら見れなかったりする?」
「ううん。大丈夫。見れるように作るし、最近のはある程度アップデートで中身は新しくなるから」
 知り合った頃は心春もそんなに詳しくなかったはずなのに、いつの間にかとても詳しくなってしまった。よく唯依ちゃんと難しい言葉を使って話をしている。
「施設を出てさ、始めに雇ってくれたおやっさんが買ってくれたんだよ。持ってないと不便だろって」
 携帯は本体がとても高い。そのころの俺には、まとまった大金を余分に払う余裕なんてなかった。
「そうなんだ。じゃあ大事にしないとね。土木関係の所だっけ?」
「そう。おやっさん腕は良かったし、みんなにも慕われてたんだけどな。なんか仕事取れなくなってさ」
 何があったのか、聞いても教えてくれなかった。お前が気にすることじゃないと言われた。
 立ち行かなくなった後は、おやっさんも俺の仕事を探してくれていたみたいだが、やはり難しかったらしい。
 面倒見が良くて、俺とみりあはとても救われた。文字通り、命の恩人だ。感謝してもしきれない。
「そう言えば暫く連絡とってないな」
 最後に連絡したのは、草壁庵で働けることが決まった時。新しい職場が見つかったと連絡をした。おやっさんは凄く喜んでくれたが、やはり自分の事は話さなかった。
「その縁は大事にしないとね」
 心春が優しく微笑みながら言う。
「ああ。結婚式には来てもらうか」
「け、結婚式!?」
 さっきとは打って変わって、驚いて変な顔をする。
「しないの?」
「する! いや、そうじゃなくて、したいし、するけど、いろいろすっ飛ばさなかった!?」
 慌てているようで、手をバタバタさせている。大分落ち着いてきたと思っていたが、そうでもないらしい。
「確かにきちんと婚約はしてないかもしれない」
「そうだよ! なんとなーくそうなるんだろうなぁとか、それっぽい発言は多いなぁとかは思ってたけど、はっきり言われたことは一度もないよ!」
「じゃあ、近いうちに改めてしっかり言うよ。この流れで言っても、なんか雰囲気ないし」
「そうして!」
 流石の心春もこの場で勢いで婚約するのははばかられたらしい。互いにそう思っていても、きちんとした言葉が必要だというのは、なんだか俺たちらしい。
「なんか付き合う時もこんな感じだったな」
 俺が言うと、心春は恥ずかしそうにうつむく。
「両想いっぽかったのに、中々言ってくれなかった……」
 付き合い始めて、それなりに経つ。それでもマンネリしないのは、心春が時折、こんな風に初心に帰してくれるからかも知れない。
 手を広げ、心春の方を見る。それだけで理解したようで、心春はススッと寄ってきた。そのまま抱きしめる。
「颯人、いつもより温かい……」
「心春だって」
「わ、私はお風呂上がりだから! 牛乳も飲んだし!」
「俺もお風呂上がりだ。牛乳はたぶん体温下げるぞ」
「うぅ……」
 観念したのか、力を抜いて俺に体を預ける。飽きなくていいのだが、心春は時々妙に恥ずかしがる。何度もしてるのに。
「これからも初心を忘れずに、仲良くやっていこうな」
 そのまま、布団へと倒れれこむ。ちょっと音がしたのでみりあが気になったが、大丈夫なようだった。
「うん……」
 心春は、俺をぎゅっと抱きしめる。怖がっているような、硬い感じでは無い。何度も感じた、優しく包み込むような抱擁だ。
 ただ、今までよりももっと、内面に触れている様な、そんな感覚にさせるものだった。
 長く付き合っていてもなお、時と共にどんどん好きになっていく。
 それが嬉しくて、そしてその想いを受け入れてくれる心春がいることが、とても幸せなことだと、強く感じることができた。


 翌日の朝、板場の仕事を終えた後、里中さんと共に事務所へと向かった。
 中に入ると俺たち以外は既に集まっていて、雑談をしていた。良く見ると桜もいる。
「お待たせしましてすみません」
 頭を下げ、空いてる椅子に腰を掛ける。たまに参加するみりあはいつも俺の隣に座っているが、今日は桜が座っていた。
 席は強制されているわけではないが、集まりを繰り返すうちに段々と同じ場所にすわるようになっていった。
 女将の隣に美咲、里中さん、杉本さん、唯依ちゃんと座っている。美咲の逆側には心春が座っていて、その隣に俺、桜と座った。
「久しぶり」
 桜が顔を少しこちらに向け、小声で言う。さっきまでは機嫌が悪いようにも見えていたが、軽く微笑んでくれたのでどうやら違うらしい。
「久しぶり、と言っても一ヶ月くらい前には会ったぞ」
 というか、卒業してから一年も経っていない。
「そうだっけ? 今は随分と暇だからそれで長く感じたのかも。だから心春に呼び出されたんだけど……」
 どうやら、心春が呼び出したらしい。みえるくんに関係しているんだろうか。
 いつもの簡単な現状報告を終えると、お客様情報の話になる。気になっていたらしい女将が心春に聞いていた。
「一応草案を考えてきました。簡単に言うと、情報を携帯で見れるようにします」
 心春が資料を掲示しながら説明をする。
「データをインターネットでアクセスできる場所に置いてですね、それを携帯で取得しに行くんです」
 たぶんよくわかってないのは、俺と美咲だけだ。
 困っていると桜が教えてくれる。とにかく携帯で見れると言われた。
 暫く心春の持ってきた資料を見ていた女将が顔を上げる。
「なるほど。でもそれだとサーバー代? といったものや、通信費が掛かってしまうんじゃないかしら」
「通信費は草壁庵の無線環境を利用すれば解消できると思います。サーバー代はそうなんですが、置くデータは殆どがテキストになるので、いくらお客様情報が膨大だと言ってもそれほど大きなものは必要になりません。システム化することで浮くリソースで十分に賄えると思っています」
 何を言ってるのか全くわからない。桜を見ると、お金は掛かるけどその分時間が浮くから何とかなると教えてくれた。
「問題はセキュリティです。単純に情報を取得するだけのシステムなら私たちでも作れない事はないんですが、個人情報を扱う以上プロが施したセキュリティが必要になります」
「そうね、誰かに盗み見れれでもしたら大変だわ」
 女将も頷いている。個人情報が漏れてはまずいという事だけは分かった。
「そこでですね、まずプロトタイプを作成します。プロトタイプなので情報は携帯にそのまま入れ込みます。これならネットワーク上にデータ置く必要がないので、簡単なセキュリティと携帯のセキュリティソフト程度で大丈夫だと思います」
「その代わり一元管理ができないから、情報の更新が大変という事ね」
 女将は理解しているらしい。俺はまだ若いのに時代に付いていけてないようだ。
「とりあえずそのプロトタイプでどのくらい効率が上がるかを検証します。その結果を見て、業者さんに開発をお願いするかどうかを検討するというはどうでしょう」
 恐らく、机上論では採算が取れているんだろう。だから実際にやってみてその通りになれば、やる価値はあるということだ。
「でも……」
 今まで分かって無さそうな顔をしていた美咲が口を開く。まさか、実は分かってたのか。
「業者さんにお願いするというのは、その、凄くお金が掛かるんじゃ?」
 システムの事ではなかった。ただ、美咲の言葉は恐らく、みんなが思っていたことなんだろう。
 だが心春はそれもちゃんと考えていたようで、美咲の質問に答える。
「草壁庵だけが使うシステムとして依頼するんじゃなくて、他にも販売出来るような形でお願いするの。システムを利用して、どの程度効率化が行われたかというデータを業者さんに提供すれば、そのデータを元に業者さんは他の宿にシステムの提案をすることが出来るから、開発費を全て草壁庵から回収する必要はないんだ」
 美咲は頷いていたが、とても分かっているようには見えない。心春の説明には、代わりに女将が答えた。
「草壁庵のシステムではなく、業者さんのシステムを草壁庵が利用させてもらう、というイメージね」
「そうです! こちらはビジネスの提案をして、ライセンス料を支払って利用させてもらうという形になります」
 業者側は作ったシステムを他にも売れるから、草壁庵はそのシステムを安く使えるということか。コンピューター関係の話でなければ、分からないことも無い。
「では、その案で行きましょう。まずは試してみて、それ次第ということで」
「はい!」
 女将の許可が出て、心春は嬉しそうにする。働き始めて最初の大きな仕事になるのだから、無理もないかもしれない。

 会議が終わると、女将と、心春が呼び止めた唯依ちゃん、桜だけが事務所に残る。
「颯人、私はこれから二人とみえるくんについて話すから、部屋の事を女将と話して貰ってもいい?」
 二人を呼び止めたのはみえるくんの話のためらしい。
「わかった。聞いてみるよ」
「お願いね!」
 言うと、心春は二人の方を向く。俺は女将の所へ移動だ。
 奥のPCの前に座っていた女将の前までくると、頭を下げる。
「ご相談したい事があるんですが、今よろしいでしょうか」
「大丈夫よ。何かしら?」
 PCの画面を見ていた女将は、こちらに向き直り、微笑んでくれる。
「離れの部屋の事なんですが……」
 俺は部屋について、便利だが家族と暮らすには狭くなりそうだという事を伝えた。
 女将はそれを聞くと、少し思案して答えてくれる。
「そうね。確かにあそこでは家族と暮らすには狭いわね」
 女将は心春が私物をあまり持ち込んでない事も知っている。それに、今後家族が増える可能性も考慮してくれているだろう。
「それで、近くで家を探そうと思うのですが、良いところがないかと思いまして」
 心春がインターネットで調べてくれたのだが、場所しか条件を入れてないのに“条件に合う物件がありません”と表示された。
「そうねぇ、空家はあるとは思うのだけど、管理者と連絡が取れるかというと怪しいところではあるわ」
「そうなんですか……」
「緊急時を考えると颯人くんたちが近くにいてくれるというのは心強いから、引っ越したとしても近くにはいて欲しいのだけど、近くで借家を探すのは大変そうね」
 車などがあれば時間距離を短縮できるので少し遠くても大丈夫そうだが、あいにくと車もバイクもない。駅を一つか二つずらせば物件もないことも無いようなのだが。
 何より、俺も心春も草壁庵で働くのに、みりあだけ来づらくなるというのは寂しいだろう。平日だけでなく、休日もみりあを一人にしてしまう。そうなれば、どちらかが仕事を辞めることを検討しなければならない。
「何かいい案があればいいんですが」
「急ぎではないのだったら、私もいろいろ調べてみるわ。誰か詳しい人がいるかもしれない」
「助かります。将来的には、というくらいなので特別急ぐわけではないです。俺も心春と相談していろいろと検討してみることにします」
「わかったわ。それじゃあ私は仕事に戻らせて貰うわね」
「はい。ありがとうございました」
 頭を下げる。女将は軽く微笑むと、視線をパソコンの画面へと戻した。俺は下がって、心春たちの方を見る。
 簡単な話をするだけかと思っていたが、なんだか盛り上がっている。何の話かはよくわからないが、心春が説明をしていた。
「開発環境はさっき言った通りで、唯依ちゃんにお願いしたいのは画面の部分ね。基本はホームページ作る感じで、拾ってきた値を表示するだけでいいから」
 心春の言葉に、少し困惑した様子の唯依ちゃんが答える。
「その値をどういう風にしたら表示できるかとかがわからないんですが……」
「そこは大丈夫。デザインだけ作ってくれれば、後は私がそのレイアウトの中に入れこむから」
「なるほど。それなら大丈夫です!」
 納得できたようで、顔が明るくなる。唯依ちゃんはプログラムも出来るのかと思ったが、どうやらそう言う訳ではないらしい。
 あれ、でもホームページも英語を書いて作るのだとか前に聞いたような気がしたけどどうなんだろう。英語の文章で何かを作るというのはプログラムではないのかな。まあよくわからないから置いておこう。
「桜はデータベースの構築と、そこと値をやり取りする処理をお願いね。検索とかそういうのも」
「ちょっと待って」
 心春を、桜が険しい顔で止める。
「なんだか私が一番難しい箇所のような気がするわ」
「そうだよ?」
 心春の表情は、なに当たり前のこと言ってるの? と言っている。呼び出されて一番難しいところを任せられるのだから、桜の反応にも頷ける。
「そこは心春がやればいいじゃない」
「暇だって言ってたから、時間かけて貰えるかなって。それに桜、理系じゃない」
「理系がみんなプログラミングが出来ると思ったら大間違いだわ……」
 桜は頭を抱えてしまう。俺には難易度の程は分からないが、暇なんだから一番難しいところをやってと言われては直ぐには納得できない。
「大丈夫! 処理自体は単純だから! それに今回は草壁庵で使うだけだから、パフォーマンスが低くても一応見れれば問題なし! 上手くいった場合はそういう部分もプロが作る訳だから、そんなに心配することもないよ」
「そうは言ってもね……いくら暇だと言っても、言語から覚えて処理を作るのは中々大変なの」
 なんだか桜はあまり引き受けたくなそうにしている。それ聞いた心春は、なんだかしょんぼりしてしまう。
「桜にしか頼めないのに……」
 これは、桜が引き受けてくれると疑ってなかったに違いない。想定外の事が起きて、結構なしょんぼりだ。
「……やるわ」
 その顔を見て何か心境の変化があったのか、桜が承諾した。けど、大きくため息をついている。
「ほんと!? よかったぁ。桜にだめだって言われたら、他はあてがなかったんだ!」
 嬉しそうにする心春。心春の凄いところは、この一連の表情の変化が計算ではないところだ。如月さんならこのくらいは意図的にやってしまう気もする。
 桜もそれを知っているので、本当にしょんぼりしていた心春を無碍に出来なくなったんだろう。この人は心春に甘い。
「まあいいわ。どういう仕様にするのか詳しく話して」
「えっとね……」
 心春は出していた資料の方を見る。唯依ちゃんと桜も、心春につられるようにそれを見た。
 込み入った話をするようだ。さっきまでの話を聞いていた限りでは、俺がいても力になるどころか、内容を理解することも難しい。
 ここは大人しく、里中さんの待つ板場へと帰ることにした。

 仕事を終え、心春と共に部屋に帰る。
 ドアを開けると、心春が先に部屋へと入った。
「ほぁぁ!」
 心春が突然変な声を出したかと思うと、頭から畳に倒れこむ。頭から飛んでよく怖くないね……、とか言ってたのに。
 よく見たら入口の直ぐ近くにみりあが転がっていた。どうやらこれに躓いたらしい。
「寝てるのか……」
 心春が足を引っかけても起きる様子がない。起きない具合が前より悪化してる気がする。
「うう……痛い……」
 倒れていた心春が起き上がり、手をさすっている。どうにか手をついて顔を打つのは防いだらしい。
「下が畳で良かった。フローリングもいいけど、畳みも捨てたもんじゃないな」
 転がってるみりあを抱えて、中へと入る。心春の近くに腰を下ろすと、みりあを頑張って起こした。
「んん……おお、おとうちゃん、カレーはまだか」
 目をゴシゴシしながらみりあが言う。
「昼に食べたんじゃないのか」
 晩飯は別の物を食べたし。
 寝ぼけているのか、本気なのかさっぱりわからない。というか、みりあを起こすのに結構苦労した。なにかしらみりあを簡単に起こす方法を確立しなくてはならないかもしれない。
「昼に食べた。でもおとうちゃんのカレーの方がうまい」
 まだ寝ぼけたままなのか、みりあは呆けている。
 何気ない一言だったけど、とても嬉しい。これから暫く夜の賄いはカレーにしよう。
「そういえば、女将と話したんだよね、どうだった?」
 痛みが治まったのか、心春が部屋の件を聞いてくる。みりあはいつの間にか心春の腕の中に納まっていた。
「話したけど、やっぱりこの辺りで借家を探すのは難しいんじゃないかってさ。協力はしてくれるみたいだけど、電車を使う距離になることも考えないとだめかも」
「そっかぁ。電車で通勤となると、みりあちゃんの事が気になるね」
 心春は視線を落としてみりあを見る。みりあはよくわかってないようで、あっけらかんとしていた。
「そうなんだよ。とりあえずはこの辺りで、もう探しようがないってくらいまで探してみるか」
「それでもいいんだけど……」
 言葉の端に元気のなさを感じるが、沈んでいる訳では無いようだ。考え事をしているように見える。
「何か思い浮かんだ?」
 心春は顔を上げ、こちらを見る。
「浮かんだんだけど、こうすれば上手くいくという感じでは無くて、こうなったらいいなというくらいの希望でしかないかな」
 心春は苦笑いをする。言葉ではそうは言っていても、心春は口に出す時点でそれなりに実現方法を考えている。
「どういう案?」
「この離れってさ、この部屋と美咲ちゃんの部屋の他に、もう少し部屋があるよね。あまり整備はされてないけど」
 確かにある。物置と化している部屋がいくつか。
「そこをみりあの部屋に充てるってこと?」
 もう一部屋貸して貰えれば、狭さという問題は一時的に解決する。先延ばしにすることでお金が貯まるのを待てば、別の解決方法が出てくる可能性もあるが……。女将はそれを提案しなかった。
 みりあが部屋を欲しがるころには、きっと新しい家族がいる。みりあがうるさいのは注意すればいいが、夜泣きなんかはどうにもならない。
 美咲が同じ建物にいる以上、それはどうしたって解決しなくてはならない問題だ。我慢して貰うなんて話にはならない。
 美咲の部屋はすぐ隣というわけではないが、テレビも付けてないだろう寝静まっている時間に泣き声がすれば、普段以上に気になるはずだ。泣き声というのは良く通るとも聞く。
「それも一つの案ではあるんだけどね、それとは別だよ」
 そう言って、心春はみりあの頭を撫でる。みりあはなんだか気持ちよさそうにしている。
「ここをリフォームしたらどうかと思って」
 リフォームという、なんだかおしゃれな言葉に少し理解が遅れる。リフォームをすればもろもろの問題は結構綺麗に片付くかもしれない。離れの敷地面積はそれなりにある。
「リフォームって結構お金かかるんじゃ?」
「掛かると思う。それで、どうするかという話になるんだけど」
 お金が掛かるし、女将や美咲の許可もいる。とても現実的ではないように感じたが、だからこそ希望だと言ったのかもしれない。
「まずは、女将と美咲ちゃんに許可を取る必要があるよね。それで、離れをリフォームするんだから、美咲ちゃんの部屋だけそのままというのはややこしいことになると思うから、丸ごとリフォームすることになると思う」
 どのくらいのリフォームをすればどのくらいのお金が掛かるかと言うのはさっぱりわからないが、離れを丸ごとリフォームすれば、とてもいい車が買えるくらいの値段はするはずだ。
 今の俺たちの財政状況では厳しい気がする。
「草壁庵は今後規模を拡大していく予定だから、社員寮として機能させることの出来る離れのリフォームというのは、女将にとっても悪くない話だと思うんだ」
「女将にも協力してもらうってこと?」
「うん。お願いをするんじゃなくて、こういう案があります、そちらにとってもメリットはありますけどどうでしょうっていう形で、提案するの。結局はお願いしてることになってしまうとは思うんだけどなんというか……」
 心春は少し困ったような顔をする。言いたい事はなんとなくわかる。助けてくださいとお願いするだけでは女将に大きな負担を掛けてしまう。でも女将も得をする提案なら、一方的に負担を掛けるわけでは無くなるのだ。タクシーの相乗りの規模の大きい感じかもしれない。
「別々にやるよりは、全部一気にやっちゃった方がたぶん安いよな。それなら女将にとっても安く済むというわけか」
 俺の答えが合っていたのか、心春は嬉しそうにする。
「そう! それでね、そうやって女将と美咲ちゃんの許可をとったら、颯人を雇ってくれていたおやっさん? に連絡を取るの」
 そうか。おやっさんはそういう関連の仕事しているのだから、この手の情報に強いかもしれない。
 心春がおやっさんという言葉が疑問形なのは、他に呼び方が分からなくてこれでいいんだろうかと俺に確認しているようにも見えた。一応肯定しておく。
「リフォームとかやってたのかは分からないんだけど、少なくともそういう業界についての知識は深いと思うんだ。颯人がおやっさんはやり手だって言ってたし。だから、騙されない様に知恵を授けて貰うことと、もし今もそういう仕事してるなら、お願いをしたらどうかと思って」
 俺がいた時も、建物の基礎工事なんかはしていた。今おやっさんが何をやっているかはわからないが、心春のいう通りきちんとしたリフォーム業者を知っていてもおかしくない。
 それに、今もそういった仕事をしているのだったら、おやっさんを介すればおやっさんにもお金が落ちるかもしれない。
「私たちが払う金額は変わらないんだからさ、どうせなら知り合いにお金が行く方がいいよね」
 人を頼ると言うのは、人に負担を掛けるだけだと思っていた。でも心春は、人を頼っても双方にとってメリットのあるやり方もあるんだと教えてくれる。
 みえるくんの話でもそうだ。互いにメリットのある話を持ち出し、お互いに得をする。WinWinというらしいが、俺はそういう案を引っ張ってくる心春に感心するばかりだ。
「おやっさんに聞いてみるか」
「え! 今から?」
「久しぶりに話もしたくなったし、おやっさんが今どうしてるかは確認する必要あるだろ? リフォームの事はとりあえず伏せて話をしてみるよ」
「そっか。それならしよう! おやっさんの情報があれば、女将にも提案しやすいしね」
 心春が言うと、みりあが腕の中から飛び出す。
「工事のおっちゃんか!? みりあも話す!」
「わかった。後で代わるから、いい子にして待っててくれ」
「みりあいい子にする!」
 そういうと、心春の横に行き正座する。みりあの中では正座するのはいい子らしい。
 携帯を取りだし、おやっさんの番号を探す。変わってない事を祈りながら、発信した。
 コール音がなり、変わってなかったことにホッとする。少したってから、繋がった。
『颯人か? どうした?』
 俺の番号はまだ登録していてくれたらしい。懐かしい渋い声が聞こえて、なんだか安心する。
「お久しぶりです。颯人です。今お時間大丈夫でしょうか」
『大丈夫だ。何かあったのか?』
「いえ、そういうわけでは無いんですが、暫く連絡をさせてもらっていなかったので、現状を報告させて頂こうと思いまして」
『おう。どうだ、上手くやってんのか?』
「はい。仕事も慣れてきて、順調です。職場の人たちも優しくて、とてもいい場所です」
『良かったじゃねぇか。いろいろ抱えてたから不安だったけどよ、安心したわ』
 離れてから随分経っているというのに、未だに気に掛けてくれている。やはり、とても面倒見のいい人だ。
「ありがとうございます。みりあが話をしたいそうなので、代わってもいいですか?」
『みりあちゃんか、代わってくれ』
 携帯を離すと、みりあに渡す。みりあは受け取ると立ち上がって、携帯を耳に当てた。
「おっちゃん! みりあだ!」
 声がでかい。おやっさんはダメージを受けてしまったかも知れない。
「お、おう……大丈夫だ。はみがきはな、まあぼちぼちやってる……」
 歯磨きの事を言われたらしい。ちょっと挙動不審になっていた。
 暫く楽しそうに会話をした後、携帯を俺に返す。みりあの声しか聞こえないから、何を話していたのかはよくわからなかった。携帯を受け取る時に、心春が自分の事を指さしていた。代わってくれということか。
『みりあちゃん変わってないな』
「そうなんです。少しは落ち着くかと思えばそうでもなくて」
『元気でいいじゃないか』
「すみません、もう一人話をしたいという人がいまして」
『ん、誰だ? 雇用主さんか?』
「いえ、言いにくいんですが、今お付き合いをさせてもらっている女性です」
『なんだ彼女か。ちゃんとやることやってんだな。俺からも話をさせてくれ』
 携帯を心春に渡す。心春は受け取ると話し始めた。
「こんばんは、水野心春と言います。え? いや、まだ時坂ではないです……あ、たぶんそうなるとは思うんですが……」
 開始早々結婚について突っ込まれているらしい。
「子供!? い、いないです! みりあちゃんはいますけど、できてはないです。頑張ってはいるんですけど……。ち、違います、そういうわけでは……!」
 いろいろからかわれているみたいだ。その度に心春が変な動きをしている。少ししてから心春はおやっさんの連絡先と名前を聞いていた。
 ついにおやっさんの名前がばれてしまった。別に隠していたわけではないが。
 満足したのか、心春は電話を渡してくる。あとはおやっさんの現状確認だけだ。話してくれるといいのだが。
『しっかりとした彼女じゃないか。大事にしろよ』
「言われなくとも大事にしてますよ。おやっさんのほうは、あれから落ち着きましたか?」
『あー、まあな。細かいことはいろいろあったんだがよ。今は若いやつらに乗せらて同じ業界で再出発って段階だ。何とかなるだろうから、お前は心配すんな』
「良かったです。安心しました」
『人の心配が出来るくらいに生活が安定してんだな。良かったな』
「おやっさんのおかげです。今度きちんとお礼をさせてください」
『んなもんはいらん。代わりに幸せに暮らすんだな。それじゃ、そろそろ切るぞ。これから若い奴らと飲みに行くんだ。もうきついって言ってんのに、朝までコースだぞ』
「それは……体に気を付けて頑張ってください。久しぶりに話せてよかったです」
『俺もだ。それじゃな、また電話くれよ』
 電話が切れる。久々に話をしたが、おやっさんは変わってなかった。仕事もまた始められるらしくてよかった。きっと、いろいろと大変だったんだろう。
「おやっさんいい人だったね」
 いつの間にか再びみりあを抱えていた心春が言う。
「おっちゃんはいいやつだ! あめちゃんをくれる!」
 みりあのいいやつの基準は食べ物をくれるかどうかなのかもしれない。
「ああ。これから仕事再出発だってさ。同じ業界らしい」
「そうなんだ、じゃあいろいろと相談できるね!」
「その件も含めて、今度ちゃんとお礼をしたいな。何がいいのかは分からないけど、俺は命を助けられたと言っても過言ではないから、きちんとした物を用意したい」
 それを聞いた心春は、柔らかく微笑む。
「何がいいか、一緒に考えよう? 颯人を助けてくれたっていうことは、私を助けてくれたのと一緒なんだから!」
 なんだか照れ臭い。
「とりあえず、明日女将に相談して、リフォームの話が落ち着いてから考えるか」
「うんうん。無理に考えて捻りだした物より、ゆっくりと考えてふと思いついたものの方が良かったりするしね」
 心春が肯定してくれると、先延ばしをしてもなんだか安心してしまう。それが正解なのだと思えてくるから凄い。
 ふとみりあに目をやると、眠りこけていた。ついさっきまで元気だったのに。
「みりあ起こして、お風呂いくか」
「そだね。また起こすのはなんだか申し訳ないけど」
 いくらみりあでも流石にお湯につければ起きる。お風呂で寝てしまって窒息する可能性が低いのでそれは助かっている。
「今日は貸切風呂でも使わせて貰うか」
「い、一緒に入るってこと?」
 心春は顔を赤くして俯いてしまう。上目遣いでこちらを見てくる。
「うん。何度も一緒に入ってるだろ」
「そ、そうだけどさ、なんかおやっさんにいろいろ言われたから意識しちゃって!」
「気にしすぎだろ。子作り頑張ってるんだから、これくらい大丈夫」
「そ、それは、つい言ってしまっただけで……!!」
 わたわたしている心春を置いて、風呂の準備をして出発する。それを見て更に慌てた心春は、みりあを抱えたままどたばと用意をして追いかけてきた。
「まってぇー!」
 横まで来ると、大きく息を吐いていた。
「いろいろ言うけど、一緒に入るの好きでしょ」
「す、好きだよ! けど毎回簡単に許してたら、ありがたみがなくなる!」
 もっともらしい理由を付けて、ごまかそうとしていた。でも顔を確認すると、単純に恥ずかしがっているだけのようにしか見えない。
「じゃあ一緒に入るのやめる?」
「やめない! 一緒に入る!」
 真剣な顔で言われてしまう。そんな風に言われると、今度はこっちが恥ずかしくなる。
「いつまでも一緒に入りたいって言って貰えるように、頑張らないと!」
 心春の体が見たいという気持ちないわけではないけど、一緒に入りたいというのはそれだけが目的ではないのにと思うと、少し笑ってしまった。
「あー、笑ったな!」
 心春は少し前にでて、下から覗き込むように俺の顔を見る。
「俺もそう思って貰えるように頑張るよ」
 互いに、それぞれが男であること、女であることを辞めてしまっては、上手くいかなくなることもあるだろう。
 いつまでも心春といられるように、努力を続けて行こうと思った。


 翌日、俺が板場で作業をしている間に、心春が女将と美咲にプレゼンをした。
 女将は信頼できる業者さんであることと、値段を一応確認してから最終決定するというのが条件だったが、やる方向で話を進めていいと言ってくれた。
 美咲は、よくわからないけど部屋が良くなるなら賛成だという事らしい。
 女将が承諾してくれた背景には、ちょっとずつではあるが草壁庵の業績が上がっているという事実がある。唯依ちゃんがいつまでもいる訳ではないし、板場だって里中さんがもっと休めるようにするためには増員は必要だ。女将も考えてくれているんだと思う。
 後はおやっさんに相談をしなくてはならないのだが、これも心春がやってくれると言っていた。
 最初からそのつもりで連絡先を聞いてたんだな。自分からするということは、きっと何か企んでるんだろう。そういう事がないのなら、こういう役割は俺に譲っている気がする。
 決まってない事をみんなのいる昼食の場で聞くのもなんだから、仕事が終わってからゆっくりと話を聞くことにした。
 
 晩御飯を食べ終え、片付けも終わったので帰ろうとしていたところに心春がやって来た。
 なんでも、女将も美咲もいるから里中さんも一緒に事務所に来てほしいとの事だった。唯依ちゃんと杉本さんにも声を掛けているらしい。
 用件だけ伝えると、心春はさっさと行ってしまう。
「なんだろうね」
 里中さんが不思議そうにこちらを見る。たぶん、リフォームの事が関係しているんだとは思うんだが。
「たぶん離れに関することだと思います」
「ほほう。離れ。颯人くん壁でも突き破った?」
 にこにこと楽しそうにしている。まるで突き破っていて欲しいみたいだ。
「突き破ってません。まあ、行ってみましょう」
 はいはいと返事をする里中さんと共に、事務所へと向かった。
 事務所に入ると、既にみんないた。心春は思ったよりも真面目な顔をしている。
 俺と里中さんが椅子に座ると、代わりに心春が立った。
「業務後に集まってもらって申し訳ありません。少し相談したい事がありまして」
 心春が話を始める。リフォームの許可をみんなにも取るのかななんて考えていたが、それにしては顔が険しい。
「この度、女将と話し合った上で離れをリフォームすることに決まりました」
 里中さんが、おお、と驚いた後に、私も住もうかなとか言っている。
「お仕事を依頼するのは、以前颯人が関東で仕事をしていた時の雇用主である、門脇さんという方が新しく起こした会社の予定なんですが、少々問題がありまして」
 問題……。おやっさんとやり取りして、何か良くない事があったんだろうか。気になってしまう。
「いろいろと端折ってしまいますが、門脇さんは訳があって大手建設会社に目を付けられているらしいんです。そのせいで、その建設会社の目の届く範囲では門脇さんに仕事が回らないように圧力が掛かっているとか」
 それを聞いて、思いだす。前俺が働いているときも、妙に仕事が取れなくなっていた。もしかしてその圧力が関係してるのか。
「それって俺がいた時もそうだったのか?」
 心春がこちらを向いて頷く。
「そうみたい。門脇さんが悪いわけでは無いんだけど、理不尽に恨む人も世の中多いから……」
 おやっさんは人の恨みを買うような人間には見えなかった。俺のような素性の怪しい奴、やんちゃしてた奴らにも分け隔てなく接してくれたし、社員さんからも人気だったように思えた。
「何故そういうことになっているかはまた別の機会に話します。ただ、門脇さんに落ち度がない理由でそうなっています。問題なのは、こちらの仕事を受注したら、大手建設会社さんが草壁庵を不快に思うかも知れないというところです」
 心春が一息つくと、美咲が口を開く。
「その大手さんって、そんなに凄いところなの?」
 俺もちょっと思っていた。圧力が掛けられるというくらいだから凄いところなんだろうけど、一つの企業が持つ力なんて限度がある。
「えっとね……」
 心春から説明を受ける。建設業界の会社というのは普段耳にすることがないのか、他の人たちは分かっていなかったようだったが、俺はおやっさんの所にいたおかげで知っていた。
「やばいな……」
 何がやばいって、業界で上から数えて、片手の指で足りるくらいの会社だ。いったいなんでそんな会社と揉めてるのか。
「どのくらい影響力があるのかは私にはっきりしたことは言えないんですが、今後建設会社を頼る必要が出来た時不利になる可能性があります。なので、皆さんに話しておこうと思いまして」
 そこまで言って、心春は腰を下ろす。
「不利になるとかそういうのはよくわからないけど、門脇さんという方は、話を聞く限りだと仕事が無くて困ってるんじゃないかい?」
 心配そうに杉本さんが言う。
 いくらおやっさんがいい仕事をするといっても、仕事を受けられなければどうしようもない。前もそうやって、たたまざるを得なくなった。
 今はきっと、いろいろな制度を活用して再出発までこぎ着けたところなんだと思う。勝算もなく立ち上がりはしないだろうから、予定に不調和があったんだろう。だから、おやっさんは困っているはずだ。
「困っていると思います。でも、そこで草壁庵が助ける必要性はありません」
 心春はなんだか悔しそうにしている。もっと何かを言いたそうにしているが、我慢しているようだ。
「心春ちゃんはさ、実績がないと相手にしてもらえないからって、ここで実績作りをしてるんだよね?」
 腕を組んで考え事をしていた里中さんが、顔を上げて心春に聞く。
「はい。実績というのは、お仕事を貰う上でとても大事なので」
「じゃあその門脇さんはさ、圧力掛けられて仕事が貰えてないわけだから、実績ゼロなんでしょ?」
 そうか、そうなるのか……前の会社での実績はあっても、それはおやっさんを知る人物の前でしか使えない実績だ。会社としては実績はゼロになってしまう。
「そうなります。最初は昔の伝手で仕事を貰う予定だったみたいなんですが……」
 それが駄目になったという事か。おやっさん、俺には心配をするなとか言って、大分大変じゃないか。
 俺としては、おやっさんに仕事を頼みたい。仕事を頼むことで、おやっさんたちは少し潤う。そして、仕事の実績ができるんだったらそれはきっとおやっさんにとっても良い事だ。
 だけど、俺の感情だけでどうこう言えることじゃない。
 影響の大小が判断できない以上、無用なリスクは負うべきではないんだ。
 ふと唯依ちゃんの方を見ると、何かを言いたそうにして、それをやめるような素振りを見せる。
 心春も唯依ちゃんも言いたい事があるんだろうけど、古参の草壁庵のスタッフを前にして、草壁庵が不利になるような事は言えないのかもしれない。
「門脇さんは颯人を助けてくれたんでしょ?」
 少し重くなり始めていた空気を美咲が払う。
「ああ。命の恩人だと言ってもいい」
 おやっさんのおかげで人間らしい暮らしが出来た。みりあにご飯を食べさせることが出来た。無計画だった俺を、おやっさんが救ってくれたんだ。
「だったら、簡単なことよ。颯人の命の恩人が困っているのなら、私たちは助けるべきだわ」
 例え自分たちが不利になっても助けるべきだという考えを、美咲は疑っていない。悩むまでもないと顔が言っている。
「そうね。颯人くんの恩人が困っているのだもの。私たちがお仕事をお願いするだけで助けられるのだったら、それはお願いするべきではないかしら。色付けてお支払いするとか、お金を貸すとか、そう言う話ではないのだから」
 女将は優しい表情でこちらを見てくれる。その言葉に、美咲も続いた。
「そうよ。だいたい不利になるとかよくわからないわ。何かあったらまた門脇さんにお願いすればいいだけじゃない」
 女将も、里中さんも杉本さんも、それに頷いていた。それをみて、唯依ちゃんと心春が嬉しそうにする。
「……ありがとうございます」
 みんなはおやっさんに会ったことはない。でも俺の恩人だからと、こんな風に言ってくれる。いろんな気持ちが交錯して、なんて言ったらいいかわからないけど、これだけは言える。
「俺、ここに来ることが出来て良かったです」
 何度言ったかわからないけど、ここは何度もそう思わせてくれる場所なんだ。きっと、これから先もずっと、この想いは変わらない。

 自室に戻ると、またみりあが眠りこけていた。今度は机の下に潜り込んでいた。
 起こす前に、おやっさんへと連絡をする。
 仕事をお願いすると、何度も、いいのか? と確認をされた。
 結局、とりあえずの約束なのに話が成立するまで10分くらいかかってしまった。細かい商談はまた日を改めて心春がすることになっている。
「良かったね」
 電話を切るとすぐに、心春に声を掛けられる。なんだか嬉しそうにしている。
「うん。でも変な感じだな。こちらがすることは他の会社に頼むときと同じなのに、それでおやっさんが助かるなんて」
「商売って言うのは、そういうものなんだよ。当たり前になりすぎてみんな忘れちゃってるけどね。草壁庵だって、お客さんが来てくれないと困るけど、来てくれたお客さんはみんな喜んでくれて、満足そうに帰っていく」
 言いながら、心春は俺の手を取る。
「だから、私たちはお客さんに来てくれてありがとうって言うし、お客さんは私たちにありがとうって言ってくれる。そうやってお互いに感謝出来たら、世界はもっと優しくなれると思うんだ」
 少しだけ自信がなさそうに、俺の顔を覗く。
「私は、颯人を助けてくれた門脇さんの力になりたかったから、みんなが了承してくれて嬉しかった」
 握られた手はとても温かく、まるで心春の気持ちが伝わってくるようだった。
「この話、上手くいくといいね」
 優しく微笑んでくれる。もう何度この顔に惚れたのか分からない。
「きっと上手くいくよ」
 心春がいるんだから、上手くいくに決まっていると、勝手に思ってしまう。それが、心春が今まで俺の前で積み上げてきた実績なんだろう。


 リフォームの話は固まり、おやっさんが一度下見に来た後、仲間を連れてきて本格的に始動した。
 一月も経てば一度は部分的に崩された離れは大方形を取り戻し、新たな外観へと姿を変えていた。
 その間、俺と心春は心春の部屋で。美咲とみりあは女将の部屋で寝泊まりをしている。心春の部屋から毎日通うのは、離れの生活に慣れてしまっていたせいかとてもきつい。
 リフォームの費用については、おやっさんから、この作業過程から完成後の様子までを広告に使わせもらえれば、値引きが出来るという話を貰った。
 最初は広告代なんて要らないから通常の金額で払うと話したのだが、最初の実績を作れるのだから本当はもっと値引きしたいぐらいだとかそういう話をされて、結局その話で決まった。
 代わりに、女将が建設期間中の作業員に対して草壁庵の部屋を提供してくれた。無料にするわけでは無く、草壁庵として作業をしてもプラスマイナスゼロになる金額での提供らしい。
 食事は賄いの形をとり、サービスは特になく部屋を貸すだけということだ。これなら、泊まる側の費用も抑えられる。
 それでも本来なら他のお客様が入ればプラスになるところがゼロになるのだから、損であることには違いない。
 おやっさんもそれは悪いと断ろうとしていたが、将来的に草壁庵の本館に改修が必要になった時、きっとおやっさんたちは優れた仕事で有名になっていて、仕事を受けて貰うのも大変なくらいになっているだろうから、その時に優先して仕事を受けてくれればいいと女将が半ば脅しに掛かっていた。
 おやっさんたちは関東から遠征で来ている。作業員の宿泊費だって馬鹿にならない。それらの支出があっても仕事を引き受けるくらいに、仕事に困っていたようだ。
 俺たちが払う費用については、割り引いて貰ったといってもなかなかの金額で、一括では少々厳しいため、給料から天引きして貰う形になっている。
 昼休みに改築が進む離れを眺めていたら、おやっさんが俺を見つけてこちらに来る。
「もうちっとだな。時間かけてすまんな」
 おやっさんは申し訳なさそうにする。
「いえ、心春が調べてくれてわかったんですが、同じ規模の工事と比較すると、随分と早いみたいで」
「会社は小さいけどよ、うちはみんな腕がいいからな。一人が優秀でもそこまでは変わらないんだろうが、みんなが優秀ならそういう所にも影響が出てくる」
 おやっさんたちは長めに作業をしているようにも、手を抜いているようにも見えない。本当に腕が優れているからこその速度なんだと感じた。
「なんであの会社辞めちゃったんですか?」
「おいおい、なんで知ってんだ」
 話して無いのにと、驚かれてしまう。
「吉岡さんが教えてくれました」
 おやっさんがどうしても自分の事を話さないから、この期間に仲良くなった、おやっさんの所のスタッフの吉岡さんに教えてもらった。
 おやっさんはあの会社を辞めたから、目を付けられてしまったんだとか。
「あいつ、余計なこと喋りやがって。まあ合わなかったんだよ。金ってのは誰にでも必要で、会社ってのはそれを稼がなきゃならん。それは間違ってないんだが、俺は金を稼ぐためだけにこの仕事をやってるわけじゃない」
 おやっさんは離れを見る。俺も一緒にそっちを見た。
「俺たちがした仕事でみんなの暮らしが良くなって、それで人が笑ってくれるなら嬉しいだろ。俺はそれが一番の目標で、それを達成するために金が欲しい。生きていくため、その目標のために一緒に頑張ってくれる仲間を養うために金が必要なんだ」
 再び俺を見る。
「けどよ、あそこは一番が金稼ぎになってた。だから俺とは衝突が多かったわけだ。俺が辞めた時に、稼ぎのいい社員が何人か一緒に辞めたのが気に食わなかったらしくてな」
 おやっさんは俺の肩に手を掛けると、今にもまして真剣な目をした。
「感謝してる。お前のおかげで、新しいスタートを切れた。ここでの作業の様子をみてからなのか、湯之原の方たちからの相談も少し来ている。どうにかなりそうだ」
 俺はおやっさんに仕事を依頼しただけだ。それも、心春や草壁庵の力を借りている。でもそれでおやっさんが助かったと言ってくれるんだったら、俺は少しでも恩を返すことが出来たんだろうか。
「俺はおやっさんに返しきれない恩を貰いましたから。それに――」
 草壁庵から心春が出てくるのが見えた。心春と目が合ったので、こっちに来いと合図をする。
「この話の企画者は、心春ですから」
「ん?」
 心春は不思議そうにしている。途中から話にはいったのだから無理もない。
「心春のおかげで、おやっさんに少し恩返しが出来たみたいだ」
 それを聞くと、心春はにっこりと微笑んだ。
「いい嫁さんを貰ったな」
 おやっさんがからかい気味に笑う。その言葉に、心春が反応した。
「嫁さん!?」
 恥ずかしそうにしているが、満更でもなさそうだ。
「そのうち、結婚式をします。良かったら来てください」
「連絡は早めにな。仕事で忙しくしてる予定だからよ」
「はい。そうさせて貰います」
 あうあうして心ここにあらずの心春を置いて、二人で話しを進める。
「婚約はまだですけど」
 おやっさんは苦笑いをする。そこに、どんよりとした心春が話しに入ってきた。
「結婚式の話はするのにプロポーズはしてくれないんです……」
「まあ、離れが完成するころくらいにはな」
「ほんとに!? 約束だよ!」
 嬉しそうに、そして勢いよく俺に詰め寄ってきた。
「ああ、約束する」
 答えると心春は満足そうに笑う。婚約をする約束という謎の約束をしてしまった。たぶん、なかなかに類をみない約束だ。
 俺がプロポーズをすれば、心春は受けてくれるだろう。だからその先の話もするし、家族が増えた時のことも考える。
 言葉にしなくても心が通わせられるだけの関係になっているんだと思う。だけど、きちんと言葉にして進んでいく。
 それが、俺と心春のあり方なんだ。
「結婚式の会場も作って貰う?」
「それは一体いくらかかるんだよ」
 アホなことも言うけど、頼りになる。とんでもないことを提案してくるけど、実現させる。
 そんな優れた能力を持っているのに、俺と共にいてくれる心春には、感謝しきれない。
 心春の言うように、みんなが感謝出来るようになれば、きっと世界は優しくなれる。
 でも、言葉に出して言うのはちょっとばかり恥ずかしい。
 いつかはきちんと言葉にして言わなければならないが、今はまだ心の中で思う。
 紗枝やみりあ、おやっさんに草壁庵のみんな。
 そして、俺の知らないどこかで見守ってくれている人たち。
 全ての人に、心よりの感謝を込めて。

 ありがとう。



戻る